此処には妄想者多田要太による物語を所収しています。



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多 田 要 太




第10話 霧の海



 久しぶりの上陸に気が緩み、モトマチの飲み屋の二階で小博打をして一文無しになってしまった。換金できるものは無いかと鞄を探り、俺の唯一の蔵書を引っ張り出した。通りかかったサンノミヤの商店街を見回すと古本屋らしき店があった。店内は三方が天井まである本棚で奥の本棚の前にあるカウンターに、小柄な老女が座っていた。俺は持ってきた本を出して買って貰いたいといった。白髪のおっかっぱ頭で、上品な金縁の眼鏡の老女は差し出された本を受け取ると、表紙をそっと撫でた。「Conrad の HEART OF DARKNESS。ずいぶん長い間愛読されていたようですね」老女はイギリス訛りのある英語でいった。「でも、ごめんなさい。うちは買い取りはしていないの」

 裏表紙にある図書館の蔵書印に気付かれたのだろうか。実をいえばこの本は俺が初めての航海に出る前に紐育の図書館で借りたものだ。
 髑髏島への恐ろしい航海。大勢の仲間が死に、恐怖と苦しみの代償に俺たちは『世界の八番目の不思議』を手にいれたけれど、それもまた大いなる禍であり、摩天楼のそびえる都市に恐怖と破壊をもたらしたことを記憶している人もあるだろう。
 世界に災厄をもたらした俺に神が要求した贖罪なのだろうか。船乗りから足を洗ってやり直そうという気持ちとは裏腹に、俺はいつの間にか更に怪しい船会社と雇用契約を交わしてしまっていて、船を下りることが出来なくなってしまった。

 終わらない航海の日々。世界中の海を巡るのだが、その船は荷も客も運ぶことはなかった。船は走り続け、ある海域に到達すると機関を止める。そこはいつも霧の深い海域だ。微かに見える海面に目を凝らすと、夥しい数の死体が浮かんでいる。何か恐ろしい出来事が俺たちの船が着く前に起こったのだろう。俺たちの船はそこで数日あるいは数週間あるいは数ヶ月遊弋する。
 浮かんでいた死体が見えなくなるまで俺たちは海上にとどまり水面を見つめ続ける。時が経つに連れて海の上の死体はひとつまたひとつと見えなくなってゆく。海中に沈んでしまうのか、蒸発するように空中に掻き消えるのか、俺たちにはわからない。ただ死体がなくなってゆくのを見守るだけだ。
 俺たちは一体何をしているのか。上級船員に尋ねても何も教えてもらえない。恐らくえらいさん達にも分からないのだろう。

 ハワイ沖、ミッドウエー沖、ソロモン海、沖縄、インドシナ、アラビア海、……海図を見たわけでもないので正確なところはわからないが、そのあたりで俺たちは死者を見送り続けていたらしい。大きな事故や戦争や災害にために海で死んだ者たち、沿岸や、内陸で不幸にあった死者たちがその霧の海に集まってくるのだろうか。
 海に死体が見えなくなると、船は再び走り出し、やがて何処かの港に入る。俺たちはそこで一晩だけの上陸休暇が与えられる。今回は日本近海で一年以上も死体を見続けて、久しぶりに神戸に入ったというわけだ。

 こんな生活をもうかれこれ80年も続けている。それで、この本を図書館へ返すことも出来ず、ずっと持っていたのだが、長い間持っているだけで頁を開いたこともない。どんな話なのかも知らないのだ。船に乗っていると、単調な毎日に退屈しきっているにも関わらず、不思議と本が読みたいとは思わないのだ。ただぼんやりと海面を眺め続けてきたのだ。こんな話をしたところで、とても信じては貰えないだろうが。

 「こんな話をしても、信じて貰えないかも知れないけれど」老女は俺に本を返しながらいった。「ここにある本は総て私が世界中の本屋をめぐり歩いて、私が選び、私が愛読したものばかりなのです。古いものもありますが、このあいだ海文堂書店で買った岩波文庫もあります。あなたが持ってこられた作品もありますよ」彼女は後ろの本棚の隅の方から一冊を取り出した。「1899年に出た初版です」俺はそれを手に取った。奥書を見ると確かに彼女のいう通りの年号が記されていたが、不思議なことに、その本は最近作られたばかりの様に見えるのだった。値段を聞くと、「ここにある本は総て、それぞれの本の定価の半額で売っています」と彼女は答えた。「おばさん、それはクレイジーだぜ。それではあんたはちっとももうからない。それではせいかつができない」俺がいうと、彼女はちょっと驚いたようだったが、すぐにどこかあどけない笑顔を浮かべてこういった「お金を儲けることも生活することも私の人生の目的ではないのよ。たぶん、あなたもそうなのでしょう」

 「たしかに」俺は答えて彼女から本を返してもらい、鞄の底に仕舞いこんで店を出た。生活のために金儲けをする必要などないのだ。彼女も俺たちも、すでに時間の外側にいる。「それでも何故か腹は減るけどな」俺はつぶやいてメリケンハトバに停泊している船に戻ることにした。今ならまだコックに頼んで残り物を食わせてもらえるだろう。

付記:図書館でコンラッドの小説をカリパクするエピソードは2005年のユニバーサル映画の名作『KING KONG』に出てくる印象的なシーンからの引用です。ピータージャクソンにはナイショにしておいてください。多田要太

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